甚目寺観音

甚目寺観音

伊勢路と美濃路が合流し、京と尾張を結ぶ交通の要衝に位置した甚目寺(じもくじ/愛知県あま市)。寺伝によれば推古天皇5年(597年)、伊勢国の漁師・甚目龍麿(はだめたつまろ)が観音像を網で引き揚げ堂を建て安置したのが始まりという(境内からは白鳳期の瓦も出土)。名古屋、清須に近いことから武将の尊崇もあつめました。

徳川家康が名護屋城築城に際して定めた尾張四観音のひとつ

本尊は、敏達天皇14年(585年)、物部守屋(もののべのもりや)、中臣勝海(なかとみのかつみ)の手によって海に投げられた3体の仏像のうち1体(聖観音)で、残りは善光寺本尊(秘仏の阿弥陀如来)、安楽寺(太宰府天満宮)の勢至菩薩とのこと。

天智天皇(てんじてんのう)の病気祈願の祈祷も行なわれ、勅願寺となっています。

中世には織田信長や徳川家康の保護を受けて繁栄。
50年に1回開帳する秘仏の聖観音が有名で通称は甚目寺観音。

名古屋城の鬼門を守る尾張四観音(おわりしかんのん=笠寺観音、荒子観音、龍泉寺観音、甚目寺観音)の一つで、丁(ひのと)・壬(みずのえ)の年は恵方に当たり節分は大賑わいとなります。
南大門、三重塔、東門は国の重要文化財。
南大門は、 建久7年(1196年)、源頼朝(源頼朝は、尾張国熱田神宮近くで生誕)の命により梶原景時が奉行となり建立。
愛知県で最古の楼門建築となっています。

善光寺の本尊(秘仏)が祀られたことも!

戦国時代に武田信玄が川中島の戦火を避けて甲斐善光寺へと遷した善光寺の本尊(秘仏)。
武田氏滅亡後に信長は善光寺の本尊(秘仏)を岐阜の稲葉善光寺(現・岐阜善光寺)へと遷しますが、本能寺の変が勃発し、信長の弟・織田信雄はさらに甚目寺へと遷しています。
後に織田信雄と同盟関係にあった徳川家康は、阿弥陀如来を本尊としている浄土宗の寺に祀るのがよいだろうと言い出して浜松の鴨江寺へ遷しています。

甚目寺観音
名称甚目寺観音/じもくじかんのん
所在地愛知県あま市甚目寺東門前24
関連HP甚目寺観音公式ホームページ
電車・バスで名鉄津島線甚目寺駅から徒歩5分
ドライブで名古屋環状2号線甚目寺南IC、甚目寺北ICから約1km
駐車場20台/無料
問い合わせ甚目寺観音 TEL:052-442-3076
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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